墨田区 文花宮元町会

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小村井香取神社について

御祭神
經津主大神ふつぬしのおおかみ(又の御名 伊波比主大神いわいぬしのおおかみ
御由緒
經津主大神は天孫降臨に先だち、天照大神の勅を奉じ、武甕槌神たけみかづちのかみ(鹿島の神)と共に出雲に降り、大國主命と御交渉の結果、國土を皇孫に捧げ奉らしめ、次いで國内を平定して日本の建国の基礎を築かれた武勇に優れた神様で、國運開発・民業指導・海上守護・縁結び・安産の神様、更には武徳の祖神として廣く仰がれております。

當神社は、永萬元年(一一六五年)の葛西御厨かさいみくりやの文書、應永五年(一三九八年)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、當地開拓のために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、小村井おむらいの氏神様として鎮守しました。

大正五年頃まで老樹欝蒼と繁茂し圓形の森林をなし、鳥類はもとより狸の類も巣を作り、隣地には小村井梅園が存して明治四十三年頃までは四季の遊びの場所ともなりました。

現在の御社殿は、昭和二十九年の建立で本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総檜造りです。
香取神社「年番」
一年間の祭典その他の御祭事の実践機関。世話人の立案計画に沿って祭典関係の実働を務める。

各町会を単位とした地域から選出され、元旦祭・節分祭・梅祭り・幣帛祭・九月の祭禮を中心にしての御奉仕をいただく。 任期は二年の御奉仕が慣例となる。
「年番」の御奉仕について
この小村井の土地は、平安時代の末期に開けてから今日まで、八百余年に渉り、多くの然も様々な人々の生活が続けられて来ました。

その永い間に渉り、この土地と多くの人々の生活を守護られてきた氏神様の香取神社に対して、この土地に住む者として代々多くの先輩の方々が、敬神の念と感謝の心を持って受け継いできたのが、年間を通しての多くの御祭事であり、その御祭事に対して正しい運営を行ってきたのが「総代・世話人・年番」の制度による御奉仕です。

こういった年間を通しての香取様への御奉仕活動で、心の中に香取様を敬い、感謝することをしっかり育てることにより、自分自身の在り方が整い、何事を行うにも正しい判断と適切な行動がとれ、それらの御祭事を通しての様々な活動や在り方が自分自身の人間的成長にプラスされ、その積み重ねが貴重な心の財産へと発展します。

この個人的な面に対して、更に多くの人と一緒に御奉仕する年番の共同体からは、十一町会に渉る人々との交流が得られ、家族や会社では捜すことのできない連帯感が学び取れ、一つの事柄を実行し完成させるための準備・実践・納め方の段取りが皆と一緒に行動していく連帯感の中で実際に学びとれます。

この二面、個人並びに集団としての利点が結果として地域に反映し、安定した暖か味のある地域が誕生して、皆様が安心して住める地域の維持へとつながっていきます。
獅子頭巡行祭について
獅子 ことばの意味
「動物」「けもの」のことを「しし」という。漢字は発音を借りた宛て字

う(立派な体)のしし 牛
ゐ(長い犬歯)のしし 猪
か(角 つの) のしし 鹿
動物の種類をいうのに、その特色を示すことばを付けて表現するのが上記のことばの例。

獅子の場合は動物・獣の全般を纏めていうことに対して、その王様格の動物・獣のライオンを代表していう場合とがあり、獅子頭巡行祭の場合は後者のライオンを示している。
※動物の王様は「獅子」、花の王様は「牡丹」、鳥の王様は「鳳凰」
獅子・ライオン の特色
中国の「漢」の時代(紀元前202~西暦220)の順帝の時、西域よりもたらされたという。その声は雷の如く一吼ひとほえごとに百獣が辟易へきえきするので獅子吼ししくという。
その後、韓国の「高麗こま」の国を経て、日本に渡来したと言われる。

百獣の王としての奮迅ふんじんたる勢いは、全ての邪悪を追い袚い、魔除けのシンボルとして獅子頭が誕生し、年番さん一同の力強い結束により、氏子中を巡り全ての魔を袚って氏子中に晴れやかな福が訪れるよう神事を務めます。
獅子頭の角と擬宝珠ぎぼし
「奉安の位置」は向かって右が角、左が擬宝珠
「一列の時」は角が先、擬宝珠が後ろ
※角で邪悪を袚って擬宝珠で丸く治め福を招く。
小村井梅園の由来
小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。

香取神社の東側に位置し、小村井字出戸五百十一番地に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有としごとおなりあり」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿も良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。

園内には築山や池に多くの名石が組まれ、東西に亙り松の大木が二列に並びたち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚をった釣り堀もあり、花菖蒲に秋の七草と多くの人でも賑わいました。

安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町のたつみの方にり、此の所に香取の社あり そのかたわらら 梅園ありて満開の節は薫風馥郁くんぷうふくいくとして行人の鼻を穿うがつ 実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景なり」と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。
香梅園について
廃園の年(明治四十三年 庚戌)から八十四年目の七回りした同じ戌年(平成六年 甲戌)に花梅のみを集めて、香取神社の境内に「香梅園」として復活しました。